2024年08月29日
高橋卓志さんの連載に、毎回唸りながら、水彩で挿画を描いています。
高橋卓志【死路に一条の活路を 〜末期がんと生きる】信濃毎日新聞
連載16 担当医が発した「フクマクハシュ」
確かに嗅ぎ取った「死の臭い」
高橋卓志【死路に一条の活路を 〜末期がんと生きる】信濃毎日新聞
連載16 担当医が発した「フクマクハシュ」
確かに嗅ぎ取った「死の臭い」
(17:17)
2024年08月28日
母が手術室に入ったので成功待ち。
再読中の上野英信『天皇陛下萬歳』、なんとも激しい雰囲気の表紙です。
難なく切り抜けられますように…祈!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*追記 8/30
母は私たちの心配をよそに体の方はなかなか元気で、退屈で不満な入院生活を送れているようです。心配してくださっていた皆々様、本当にありがとうございましたm(._.)m
次の手術の有無が来週中に決まるまではマズいメシも辛抱です!
再読中の上野英信『天皇陛下萬歳』、なんとも激しい雰囲気の表紙です。
難なく切り抜けられますように…祈!
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*追記 8/30
母は私たちの心配をよそに体の方はなかなか元気で、退屈で不満な入院生活を送れているようです。心配してくださっていた皆々様、本当にありがとうございましたm(._.)m
次の手術の有無が来週中に決まるまではマズいメシも辛抱です!
(15:55)
2024年08月25日
小川伸介監督『ニッポン国 古屋敷村』
北九州で上映した際に、山福印刷でポスターやパンフレットを父が絵を入れて刷っていたのですが、なぜかそのパンフがAmazonに掲載されていました。販売してたのかなあ?謎!
というのも大掃除中に、印刷に使ったであろうスチール写真が出て来てしまったので、どうなっているのかな?と検索してみてのことでした。
小川プロダクション DVD化プロジェクト告知映像
北九州で上映した際に、山福印刷でポスターやパンフレットを父が絵を入れて刷っていたのですが、なぜかそのパンフがAmazonに掲載されていました。販売してたのかなあ?謎!
というのも大掃除中に、印刷に使ったであろうスチール写真が出て来てしまったので、どうなっているのかな?と検索してみてのことでした。
小川プロダクション DVD化プロジェクト告知映像
(11:08)
2024年08月24日
ただいま実家の大掃除中〜ヒーコラヒーコラ…
開かずの押入れの一番奥から紛失したはずの冊子擬きが出て来て暫しボー然。9~10歳時に書き続け、14コマ1話×15話を1冊に綴った「ホネホネマンガ」というガイコツ(私)主人公の下手糞出鱈目なヤツ。
10歳以降はこの存在をとっくに忘れていたけれど、25歳を過ぎて旅したメキシコで「死者の日」を知り驚愕!ホネホネマンガが蘇って泣くほど喜び、以来メキシコ死者の日は必ず祀る生活になったのでした。
あーびっくりした。今見ると猫までホネになっとる。それもメキシコと同じやないの!そっか私って何もかもがずっと変わっていないのか〜
開かずの押入れの一番奥から紛失したはずの冊子擬きが出て来て暫しボー然。9~10歳時に書き続け、14コマ1話×15話を1冊に綴った「ホネホネマンガ」というガイコツ(私)主人公の下手糞出鱈目なヤツ。
10歳以降はこの存在をとっくに忘れていたけれど、25歳を過ぎて旅したメキシコで「死者の日」を知り驚愕!ホネホネマンガが蘇って泣くほど喜び、以来メキシコ死者の日は必ず祀る生活になったのでした。
あーびっくりした。今見ると猫までホネになっとる。それもメキシコと同じやないの!そっか私って何もかもがずっと変わっていないのか〜
(14:17)
2024年08月16日
実家の大掃除で出て来た、懐かしい、目にして思わず叫んでしまった私的逸品!東京 練馬・ブレヒトの芝居小屋に当時19歳で在籍していた私はそれなりに一生懸命お手伝いをしていたのでした。
ブレヒトの芝居小屋フェア1982
72時間 反原発コンサート 住民票
生命のフェスティバルPART
この文字と絵は絵本作家の長谷川集平さんが描いてくださっています。
集平さんは当時、東京演劇アンサンブルの冊子やポスターに絵を提供していらして、私は高校時代から大ファンだったので、印刷物を何枚も劇団から盗んでいました。←時効
下北半島祭の方は、青森の原子力船むつ入港反対デモ、というかフェスに参加したときのもの。すげー懐かしくて涙出そう!
ブレヒトの芝居小屋フェア1982
72時間 反原発コンサート 住民票
生命のフェスティバルPART
この文字と絵は絵本作家の長谷川集平さんが描いてくださっています。
集平さんは当時、東京演劇アンサンブルの冊子やポスターに絵を提供していらして、私は高校時代から大ファンだったので、印刷物を何枚も劇団から盗んでいました。←時効
下北半島祭の方は、青森の原子力船むつ入港反対デモ、というかフェスに参加したときのもの。すげー懐かしくて涙出そう!
(11:09)
2024年08月14日
母が入院中なので、ここぞとばかりに実家の大掃除を決行。
父の机周りを片付けていたら凄い写真が出て来ましたあ!
右から 千田梅二さん、山本作兵衛さんと奥方のタツノさん、
そして上野英信さん。撮影は羮さん。お盆に相応しい…家宝ですっ。
緒方恵美さんによると、1982.1/15 写真万葉録10巻 p187関連写真とか。
そうこうしていたら、さらにもう一枚、私的お宝写真が!
左から 上野晴子さん、石牟礼道子さん、山福康政 (父)。
撮影は誰だろう?母かなあ。慌てて額装いたしました!
どちらの写真も、7名ひとりもこの世にいらっしゃらない。寂しいです。
母の思わぬ緊急入院で家の大掃除ができた、その有り難き贈り物?…皆さんが見護ってくださっているみたいな感じが現実として私に伝わってきていて本当に心強いです。エール、勝手にしっかり受けとめました。
本日はお盆でもありますし、父の月命日でもあります。感謝✨
父の机周りを片付けていたら凄い写真が出て来ましたあ!
右から 千田梅二さん、山本作兵衛さんと奥方のタツノさん、
そして上野英信さん。撮影は羮さん。お盆に相応しい…家宝ですっ。
緒方恵美さんによると、1982.1/15 写真万葉録10巻 p187関連写真とか。
そうこうしていたら、さらにもう一枚、私的お宝写真が!
左から 上野晴子さん、石牟礼道子さん、山福康政 (父)。
撮影は誰だろう?母かなあ。慌てて額装いたしました!
どちらの写真も、7名ひとりもこの世にいらっしゃらない。寂しいです。
母の思わぬ緊急入院で家の大掃除ができた、その有り難き贈り物?…皆さんが見護ってくださっているみたいな感じが現実として私に伝わってきていて本当に心強いです。エール、勝手にしっかり受けとめました。
本日はお盆でもありますし、父の月命日でもあります。感謝✨
(22:17)
2024年08月10日
福岡県嘉麻市立織田廣喜美術館で7/19から開催されている
ささめやゆきさんと石川えりこさん、お2人による展覧会『ゑと本』
実は数日前に母が緊急入院(ペースメーカーの問題なので本人は痛くも痒くもなく、なぜ入院?という感じなのでご心配なく!)してしまい、出掛けるのは無理と諦めていたけれど、コロナ蔓延面会不可なので病院に居られず、ドタバタでエイヤっとマリリンの車に乗せてもらい短時間訪問、辿り着けました。何年振りかな、お顔拝見とハグ!ううう嬉しい♡
展示作品と一緒にお2人が交わした往復書簡いろいろも展示されていて、
展覧会が出来上がる過程を覗き見しているようでワクワクしました。
この素晴らしい展示は9/16まで。お時間ある方は是非!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
行った日は、お二人が子どもたちと一緒にボタ山の絵を描くというWS
が開催されており、朱実ちゃんも描いて!と言われてヒャ〜っと参加し
たのですが、皆さんの絵はこのように屏風になっていました。素敵。
『みんなのボタ山 貼り交ぜ屏風』
子どもたちが描いたボタ山たち、素晴らしきかな!!
ささめやゆきさんと石川えりこさん、お2人による展覧会『ゑと本』
実は数日前に母が緊急入院(ペースメーカーの問題なので本人は痛くも痒くもなく、なぜ入院?という感じなのでご心配なく!)してしまい、出掛けるのは無理と諦めていたけれど、コロナ蔓延面会不可なので病院に居られず、ドタバタでエイヤっとマリリンの車に乗せてもらい短時間訪問、辿り着けました。何年振りかな、お顔拝見とハグ!ううう嬉しい♡
展示作品と一緒にお2人が交わした往復書簡いろいろも展示されていて、
展覧会が出来上がる過程を覗き見しているようでワクワクしました。
この素晴らしい展示は9/16まで。お時間ある方は是非!
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行った日は、お二人が子どもたちと一緒にボタ山の絵を描くというWS
が開催されており、朱実ちゃんも描いて!と言われてヒャ〜っと参加し
たのですが、皆さんの絵はこのように屏風になっていました。素敵。
『みんなのボタ山 貼り交ぜ屏風』
子どもたちが描いたボタ山たち、素晴らしきかな!!
(19:17)
2024年08月06日
昨年のblog記事を再投稿。できる限り毎年続けていきたいと思います。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2024 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。
先般、私は数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。
翻って現在も世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、だからこそ力には力を、と言う。核兵器には核兵器を。しかし、そこではもう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。
私たちは真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。
にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。
現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。
ある沖縄の研究者が不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人また一人と失っていくことに、私は耐えられません。
「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
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*2024 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。
先般、私は数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。
翻って現在も世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、だからこそ力には力を、と言う。核兵器には核兵器を。しかし、そこではもう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。
私たちは真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。
にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。
現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。
ある沖縄の研究者が不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人また一人と失っていくことに、私は耐えられません。
「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。
(15:22)
2024年08月01日
高橋卓志さんの連載に、毎回唸りながら、水彩で挿画を描いています。
高橋卓志【死路に一条の活路を 〜末期がんと生きる】信濃毎日新聞
連載15 腫瘍マーカーの数値上昇 聞こえてきた声
度胸を据えて付き合うしかない
高橋卓志【死路に一条の活路を 〜末期がんと生きる】信濃毎日新聞
連載15 腫瘍マーカーの数値上昇 聞こえてきた声
度胸を据えて付き合うしかない
(17:17)
2024年07月31日
2024年07月30日
2024年07月28日
2024年07月27日
(10:33)
2024年07月23日
2024年07月22日
2024年07月21日
ここ若松では、昨日は”くきのうみ花火大会”、本日は”火祭り”。
北九州ではあちこちで違うお祭りが開催されていて大忙しです。
昭和29年に火野葦平が「戦後の荒んだ世の中を明るく照らそう」と高塔山頂上で河童を招待する祭りを初め、賛同した人々が松明を掲げて登ったのが火祭りの始まりとあり、私の父の著書「ふろく」には、その初期に、火野葦平「石と釘」作品中の、河童を地蔵に封じ込めた山伏役をやらされた時のドタバタが書かれていて笑えます。
私も小学生の頃は松明を持って高塔山の河童封じの地蔵尊まで何度か歩きました。こんな小さなお祭りが現在も続いているのが嬉しいなあ。
北九州ではあちこちで違うお祭りが開催されていて大忙しです。
昭和29年に火野葦平が「戦後の荒んだ世の中を明るく照らそう」と高塔山頂上で河童を招待する祭りを初め、賛同した人々が松明を掲げて登ったのが火祭りの始まりとあり、私の父の著書「ふろく」には、その初期に、火野葦平「石と釘」作品中の、河童を地蔵に封じ込めた山伏役をやらされた時のドタバタが書かれていて笑えます。
私も小学生の頃は松明を持って高塔山の河童封じの地蔵尊まで何度か歩きました。こんな小さなお祭りが現在も続いているのが嬉しいなあ。
(10:30)