裏山書房,山福家
2024年12月31日
2024年08月25日
小川伸介監督『ニッポン国 古屋敷村』
北九州で上映した際に、山福印刷でポスターやパンフレットを父が絵を入れて刷っていたのですが、なぜかそのパンフがAmazonに掲載されていました。販売してたのかなあ?謎!
というのも大掃除中に、印刷に使ったであろうスチール写真が出て来てしまったので、どうなっているのかな?と検索してみてのことでした。
小川プロダクション DVD化プロジェクト告知映像
北九州で上映した際に、山福印刷でポスターやパンフレットを父が絵を入れて刷っていたのですが、なぜかそのパンフがAmazonに掲載されていました。販売してたのかなあ?謎!
というのも大掃除中に、印刷に使ったであろうスチール写真が出て来てしまったので、どうなっているのかな?と検索してみてのことでした。
小川プロダクション DVD化プロジェクト告知映像
(11:08)
2024年08月06日
昨年のblog記事を再投稿。できる限り毎年続けていきたいと思います。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2024 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。
先般、私は数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。
翻って現在も世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、だからこそ力には力を、と言う。核兵器には核兵器を。しかし、そこではもう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。
私たちは真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。
にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。
現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。
ある沖縄の研究者が不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人また一人と失っていくことに、私は耐えられません。
「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2024 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。
先般、私は数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。
翻って現在も世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、だからこそ力には力を、と言う。核兵器には核兵器を。しかし、そこではもう一つの現実は意図的に無視されています。人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。禁止された化学兵器も引き続き使われている。核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。
私たちは真の現実主義者にならなければなりません。核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。
にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。
現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。想像してください。核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。
ある沖縄の研究者が不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人また一人と失っていくことに、私は耐えられません。
「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。
(15:22)
2024年07月14日
居眠り中の母におやつを持って行くと、「ああ、今夢を見とって疲れた」と。どんな夢か尋ねると、「牡丹江からハルビンに逃げよったんよ」から始まって、満州引揚の話になった。この夏の時期、母は戦争での体験をよく思い出す。
「飲まず食わずで歩き続けて、途中で脱落して動けんくなった人たちもおって、どんどん人が減って、川を見下ろす丘に着いたときは20人くらいになっとってね、男は兵隊に取られとるけぇ女と子どもばかり、もう疲れてしまってね、ここでみんなで死のうっち誰かが言い出して。母は頷きながら、ちょっと水を飲みに行って来ると言って私と姉を連れてその集団から離れてね、川に向かいながら「死ぬ時はどうなったって死ぬんやけ、なんで今一緒に死なないけんのね、このバカどもが!」と。
川に沿って行けばきっと人が居る場所があるはずだと、川の水を飲みながらずっとずっと歩き続けたら駅があった。だけど屋根のない貨車みたいな車両に人がぎっしり満員で私たちは乗れんでね、諦めとったらロシア軍の空襲に遭った。電車がめちゃくちゃに銃撃されて、乗っていた殆どの人が死んでしもた。逃げ出して走る人を飛行機が追いかけてどんどん殺していく。…あんなことは絶対にしたらいけん。それで私たちが乗れることになって、たくさんの死体に躓きながら電車に向かって急いだ。死体を見ても何も感じなくなっとった。行けるとこまで行こうと電車が動き始めた時、3人のアメリカ兵が一緒に乗せてくれと頼んだけど、どの貨車も怖がって乗せてくれん。そしたら母が「ええよ、乗りなさい!」と手を引いた。それがよ、電車が動き始めてから運転士と結託しとった山賊が何度も来たんやけど、この車両はアメリカ兵が銃を構えとるけ襲われんかった、重宝したねえ。
それから、ハルビンまで行く間で電車が停車する度に母が米を炊いてね、おにぎり結んで辺りに配って回った。家から鍋と米を背負って逃げて来たんやね。母は強かったねえ。私は8歳だった。」
私は「そんな夢を見たら、そりゃ疲れたやろ。これからまた居眠りして続きを見らないけんのやけ、食欲がないとか言っとらんで食べないけんよ〜体力つけな、夢について行かれんよ!」と檄を飛ばしてテーブルの上におやつを置いた。ひととおり話し終わった母は「戦争は怖い、戦争なんか絶対にしたらいけん。」と繰り返し言い続けた。
「飲まず食わずで歩き続けて、途中で脱落して動けんくなった人たちもおって、どんどん人が減って、川を見下ろす丘に着いたときは20人くらいになっとってね、男は兵隊に取られとるけぇ女と子どもばかり、もう疲れてしまってね、ここでみんなで死のうっち誰かが言い出して。母は頷きながら、ちょっと水を飲みに行って来ると言って私と姉を連れてその集団から離れてね、川に向かいながら「死ぬ時はどうなったって死ぬんやけ、なんで今一緒に死なないけんのね、このバカどもが!」と。
川に沿って行けばきっと人が居る場所があるはずだと、川の水を飲みながらずっとずっと歩き続けたら駅があった。だけど屋根のない貨車みたいな車両に人がぎっしり満員で私たちは乗れんでね、諦めとったらロシア軍の空襲に遭った。電車がめちゃくちゃに銃撃されて、乗っていた殆どの人が死んでしもた。逃げ出して走る人を飛行機が追いかけてどんどん殺していく。…あんなことは絶対にしたらいけん。それで私たちが乗れることになって、たくさんの死体に躓きながら電車に向かって急いだ。死体を見ても何も感じなくなっとった。行けるとこまで行こうと電車が動き始めた時、3人のアメリカ兵が一緒に乗せてくれと頼んだけど、どの貨車も怖がって乗せてくれん。そしたら母が「ええよ、乗りなさい!」と手を引いた。それがよ、電車が動き始めてから運転士と結託しとった山賊が何度も来たんやけど、この車両はアメリカ兵が銃を構えとるけ襲われんかった、重宝したねえ。
それから、ハルビンまで行く間で電車が停車する度に母が米を炊いてね、おにぎり結んで辺りに配って回った。家から鍋と米を背負って逃げて来たんやね。母は強かったねえ。私は8歳だった。」
私は「そんな夢を見たら、そりゃ疲れたやろ。これからまた居眠りして続きを見らないけんのやけ、食欲がないとか言っとらんで食べないけんよ〜体力つけな、夢について行かれんよ!」と檄を飛ばしてテーブルの上におやつを置いた。ひととおり話し終わった母は「戦争は怖い、戦争なんか絶対にしたらいけん。」と繰り返し言い続けた。
(15:17)
2024年06月10日
2024年05月15日
2024年02月14日
今日は父の26回目の命日。印刷工場はこんなんなってるよ、お父さん。
バレンタインデーだから、父が大好きだったチョコを捧げます。
例年は、これでもかーっとドッサリ仏壇に積み上げるのだけれど、
最近は母が際限なく食べてしまうので体の事を考えて少しだけに。
ちょっと暖かな春日だったので、相方のギターの練習の音を聴きながら
芽吹き始めた植物たちのメンテナンスをしつつ、音楽好きで掃除も好き
だった父のことを思い出していました。印刷工場がイベントできる場所
になり、もうすぐ堀内花子さんが来てくれるってことをどれだけ喜んで
いるだろう、それだけでも命日に相応しい日だなあと思って、うふふ。
花子さんもお父様について話してくれるんですよね〜泣いちゃいそう!
バレンタインデーだから、父が大好きだったチョコを捧げます。
例年は、これでもかーっとドッサリ仏壇に積み上げるのだけれど、
最近は母が際限なく食べてしまうので体の事を考えて少しだけに。
ちょっと暖かな春日だったので、相方のギターの練習の音を聴きながら
芽吹き始めた植物たちのメンテナンスをしつつ、音楽好きで掃除も好き
だった父のことを思い出していました。印刷工場がイベントできる場所
になり、もうすぐ堀内花子さんが来てくれるってことをどれだけ喜んで
いるだろう、それだけでも命日に相応しい日だなあと思って、うふふ。
花子さんもお父様について話してくれるんですよね〜泣いちゃいそう!
(15:50)
2023年08月29日
2023年08月21日
2023年08月06日
昨年のblog記事を再投稿。できる限り毎年続けていきたいと思います。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2023 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
「あなたは責任を負えるのか」
本日、被爆78年を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
今、世界では、ロシアによる非道なウクライナ侵攻と核兵器による脅しが続き、北朝鮮は核及びミサイル開発を進め、一部の核保有国が核戦力の大幅な増強を図るなど、核兵器を巡る安全保障環境は厳しくなっています。日本においても、また世界においても、核戦力やその運用の強化を図るべしとの論が声高に叫ばれています。
そうした中、今年5月、ここ平和記念公園に、核兵器国3か国を含むG7首脳が集まり、資料館を訪問し、被爆者の声に耳を傾け、慰霊碑に献花して犠牲者に哀悼の誠を捧げました。
被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。
しかしながら、なお世界には、核兵器こそが平和の維持に不可欠であるという、積極的核抑止論の信奉者が存在し、首脳たちの示す目標に向けた意志にかかわらず、核軍縮の歩みを遅らせています。
私は、そのような核抑止論者に問いたい。あなたは、今この瞬間も命を落としている無辜のウクライナの市民に対し、責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。核兵器国による非核兵器国への侵略を止められないという現在の状況は、「安定・不安定パラドックス」として、核抑止論から予想されてきたことではないですか。
また、あなたは、万が一核抑止が破綻した場合、全人類の命、場合によっては地球上の全ての生命に対し、責任を負えるのですか。あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか。
核兵器は、存在する限り人類滅亡の可能性をはらんでいる、というのがまぎれもない現実です。その可能性をゼロにするためには、廃絶の他ない、というのも現実なのです。
今、核抑止論者がすべきことは、この現実を直視し、そのような責任はとりきれないことを認め、どんなに厳しい安全保障環境にあろうとも、どうしたら核軍縮を進め、最終的には核廃絶を実現できるか、そのための知恵の結集と行動に参画することです。
私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。
広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります。
終わりに、核兵器廃絶を目指して不断の取組を続けてこられた被爆者の皆様に改めて深く敬意を表するとともに、一日も早い核兵器廃絶の実現を誓い、平和のメッセージといたします。
令和5年8月6日 広島県知事 湯崎英彦
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2023 平和記念式典 湯崎英彦広島県知事 あいさつ全文
「あなたは責任を負えるのか」
本日、被爆78年を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
今、世界では、ロシアによる非道なウクライナ侵攻と核兵器による脅しが続き、北朝鮮は核及びミサイル開発を進め、一部の核保有国が核戦力の大幅な増強を図るなど、核兵器を巡る安全保障環境は厳しくなっています。日本においても、また世界においても、核戦力やその運用の強化を図るべしとの論が声高に叫ばれています。
そうした中、今年5月、ここ平和記念公園に、核兵器国3か国を含むG7首脳が集まり、資料館を訪問し、被爆者の声に耳を傾け、慰霊碑に献花して犠牲者に哀悼の誠を捧げました。
被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。
しかしながら、なお世界には、核兵器こそが平和の維持に不可欠であるという、積極的核抑止論の信奉者が存在し、首脳たちの示す目標に向けた意志にかかわらず、核軍縮の歩みを遅らせています。
私は、そのような核抑止論者に問いたい。あなたは、今この瞬間も命を落としている無辜のウクライナの市民に対し、責任を負えるのですか。ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。核兵器国による非核兵器国への侵略を止められないという現在の状況は、「安定・不安定パラドックス」として、核抑止論から予想されてきたことではないですか。
また、あなたは、万が一核抑止が破綻した場合、全人類の命、場合によっては地球上の全ての生命に対し、責任を負えるのですか。あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか。
核兵器は、存在する限り人類滅亡の可能性をはらんでいる、というのがまぎれもない現実です。その可能性をゼロにするためには、廃絶の他ない、というのも現実なのです。
今、核抑止論者がすべきことは、この現実を直視し、そのような責任はとりきれないことを認め、どんなに厳しい安全保障環境にあろうとも、どうしたら核軍縮を進め、最終的には核廃絶を実現できるか、そのための知恵の結集と行動に参画することです。
私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。
広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります。
終わりに、核兵器廃絶を目指して不断の取組を続けてこられた被爆者の皆様に改めて深く敬意を表するとともに、一日も早い核兵器廃絶の実現を誓い、平和のメッセージといたします。
令和5年8月6日 広島県知事 湯崎英彦
(10:27)
2022年08月30日
2022年08月06日
昨年のblog記事を再投稿。できる限り毎年続けていきたいと思います。
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2022 平和記念式典 あいさつ全文
広島県 湯崎英彦知事「核兵器は今 そこにある危機」
本日、被爆77年を迎えるに当たり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して、謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
あの時、川土手で、真っ赤に燃え盛る空の下、中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」。その声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった。生き延びても孤児となった子どもは、転々と身を寄せた家に居場所もなく、廊下に風呂敷を置いて着替え場所とし、被爆者の病気はうつるなど、差別に苦しんだ。
被爆者が、人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、この原爆の、核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。
その思いが原動力となり、今年6月、核兵器禁止条約第1回締約国会議が開催されました。被爆者の切実な思いが、世界をもう一歩前に進めた瞬間でした。
他方で、東欧では侵略戦争が勃発し、あまつさえ、その侵略国は核兵器の使用も辞さないとあからさまな脅しを世界にかけるばかりか、当事者でない国の人々さえ、身を守るためには核兵器が必要だと言い始めています。
我々の多くが、侵略者の脅しが単なる虚勢ではなく、実際に核兵器が使用される危険として認識したのではないでしょうか。つまり核兵器は、現実の今、そこにある危機なのです。
ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で、理不尽で大量の死を招く暴力は、悪により、しかし、時に正義の衣をかぶりながら、連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言い難いかもしれません。
人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば、この歴史の事実を直視し、これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。
しかしながら、力には力で対抗するしかない、という現実主義者は、なぜか核兵器について、肝心なところは、指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。
本当は、核兵器が存在する限り、人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。
今後、再度、誰かがこの人間の逃れられない性に根差す行動を取ろうとするとき、人類全体、さらには地球全体を破滅へと追いやる手段を手放しておくことこそが、現実を直視した上で求められる知恵と行動ではないでしょうか。
実際、ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。今後、繰り返されうる対立の中で核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。
地球温暖化は200年、パンデミックは2年超かけて、人類の持続可能性に疑義を突き付けました。核兵器は、誰かがボタンを押せば人類の持続可能性は30分かもしれません。
核兵器廃絶は、人類の持続可能性のために最も喫緊の課題であることを認識し、最後の核弾頭が解体・破壊され、この地球上から核兵器が完全になくなるまで休むことなく全力を尽くすことを改めてここに誓い、平和へのメッセージといたします。
令和4年8月6日 広島県知事 湯崎英彦
私は北九州生まれですが、母は秋田、父は広島というブレンドです。
曽祖父が爆心地近くに建っていたという山福旅館を道楽で潰し、晩年は
盲目となった祖父が仕事を求め、既に賭博業で九州へ流れ着いていた親
戚を頼って北九州へ渡ったお陰で助かったのだと…
小さな頃から道楽も一概に悪いとは言えんのだぞ的に聞かされていたの
で、私の現在の生活もそのせいに違いないんだわと言い逃がれしつつ、
やはり8/6は父方の先祖を憶う特別な日。
画像は父の著書「ふろく」の1場面。
叔父が営む自転車屋から仕事を手伝えと声がかかり、原爆投下の2年後に
広島に降り立ったときの記憶のようです。
『焼跡は想像をはるかにこえていた。西魚屋町は繁華街だった。紙屋町
のそば。ぼくの母の妹の叔母は八月六日にピカで死んだ。なぜか左半分
だけ焼け残ったのを姪が二日後、学童疎開先からぬけて来てトタン板の
上で焼いたそうだ。当時小6だった。』
坂口博さんによる「原爆文学」探査5/山福康政『焼け跡に風が吹く』
に考察と詳細が書かれているのを見つけました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*2022 平和記念式典 あいさつ全文
広島県 湯崎英彦知事「核兵器は今 そこにある危機」
本日、被爆77年を迎えるに当たり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して、謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や、御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
あの時、川土手で、真っ赤に燃え盛る空の下、中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」。その声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった。生き延びても孤児となった子どもは、転々と身を寄せた家に居場所もなく、廊下に風呂敷を置いて着替え場所とし、被爆者の病気はうつるなど、差別に苦しんだ。
被爆者が、人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、この原爆の、核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。
その思いが原動力となり、今年6月、核兵器禁止条約第1回締約国会議が開催されました。被爆者の切実な思いが、世界をもう一歩前に進めた瞬間でした。
他方で、東欧では侵略戦争が勃発し、あまつさえ、その侵略国は核兵器の使用も辞さないとあからさまな脅しを世界にかけるばかりか、当事者でない国の人々さえ、身を守るためには核兵器が必要だと言い始めています。
我々の多くが、侵略者の脅しが単なる虚勢ではなく、実際に核兵器が使用される危険として認識したのではないでしょうか。つまり核兵器は、現実の今、そこにある危機なのです。
ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で、理不尽で大量の死を招く暴力は、悪により、しかし、時に正義の衣をかぶりながら、連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言い難いかもしれません。
人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば、この歴史の事実を直視し、これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。
しかしながら、力には力で対抗するしかない、という現実主義者は、なぜか核兵器について、肝心なところは、指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。
本当は、核兵器が存在する限り、人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。
今後、再度、誰かがこの人間の逃れられない性に根差す行動を取ろうとするとき、人類全体、さらには地球全体を破滅へと追いやる手段を手放しておくことこそが、現実を直視した上で求められる知恵と行動ではないでしょうか。
実際、ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。今後、繰り返されうる対立の中で核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。
地球温暖化は200年、パンデミックは2年超かけて、人類の持続可能性に疑義を突き付けました。核兵器は、誰かがボタンを押せば人類の持続可能性は30分かもしれません。
核兵器廃絶は、人類の持続可能性のために最も喫緊の課題であることを認識し、最後の核弾頭が解体・破壊され、この地球上から核兵器が完全になくなるまで休むことなく全力を尽くすことを改めてここに誓い、平和へのメッセージといたします。
令和4年8月6日 広島県知事 湯崎英彦
(08:24)